戦術@ジェスチャー伝言ゲーム
ジェスチャー伝言ゲームにおいて、情報の伝え方には2つの取りうる戦術がある。1つはモノマネ戦術で、もう一個は決めつけ戦術である。
モノマネ戦術は、前の人のやったことをできる限り真似する方法である。前の人が頭の近くで片手を上げて手を開いたり閉じたりしていた場合、自分もできる限りその動作を真似て、頭の近くで片手を上げて手を開いたり閉じたりする。
決めつけ戦術は、自分の中で前の人の答えを決めつけ、自分なりのベストな伝え方でその答えを提示する戦術である。前の人が頭の近くで片手を上げて手を開いたり閉じたりしていた場合、それが腹話術だと思ったら、次の人には腹話術を伝えるには何が大切かを考え、例えば大げさな口パクを追加して頭の少し下で手を開いたり閉じたりするのである。
どちらの戦術を採用するかについて、自分が相手の意図を読み取れなかったと感じた場合はモノマネ戦術を、意図を読み取れたと思う場合は決めつけ戦術をとる場合が多いと感じる。
しかし、私としては全ての人が決めつけ戦術を採用すべきであると感じる。
理由は3つある。
1つ目 モノマネ戦術を続けると、情報が劣化しやすい。
人間は、他人の動作を完全に真似することはできない。どうしても受け取る人の重要度のフィルタによって情報が削除されていく。決めつけ戦術であれば、答えが一致していれば情報が復活することもあり得る。
2つ目 モノマネ戦術は読み取る時点の負荷が大きい
モノマネ戦術は、相手が何をしているかを考えず、ひたすら相手の動作を覚えて実行する戦術である。そのためには、できる限り前の人の動作を覚える必要がある。また、前の人が困った顔や試行錯誤している場合、それが伝達のための動作で次の人に対して示すべき動作なのか、試行錯誤の動作なので次の人に示さなくてもよい動作なのかを判断しないと行けなくなる。そして、たいていの人は示すべき動作を示さなくていい動作とし、示さなくていい動作を示すべき動作としてしまうのである。
3つ目 決めつけ戦術の方が参加している感じが出る。
全員がモノマネ戦術をとった場合、ジェスチャーを考えることができるのは先頭の人間だけである。それ以外の人は前の人の動作を真似するだけで、自分なりの創意工夫を入れる余地は少ない。強いて言えば情報のフィルタリング方法に工夫の余地がある程度である。
それに対し、決めつけ戦術であれば、よりよく伝え方法を考えることができる。前の人がやってなかった動作であっても、その動作が本質をつかんでいると思えば自分の意思で動作を付け加えることができる。そこには工夫する楽しさが存在するのである。
また、決めつけ戦術では自分に、自分の中での回答をする権利が与えられる。答えを聞くときに、自分の思っていたものが当たっていたか、違っていたかを楽しむには、前の人の動作から答えを推測するしかないのである。
そういう理由で私は決めつけ戦術を推奨する。
これは仕事にも応用できる。大事なのは人から言われたことや、人がやっている動作をひたすら真似ることではなく、それぞれの動作や仕事がどういう意味を持っているかを考え、その考えを実践できる方法を考えることが重要なのである。
とわ言いつつも、そもそも論を考えると、仕事を行う上で本当に大切なことはできるだけ伝言ゲームになる環境を作らないことである。それができるだけの環境は今のITの時代であれば、致命的に難しいことではないはずなのだ。
なお、例に出したジェスチャーゲームのお題は信号機です。
GDPと人口と国土面積
日本は人口が多い。
アメリカ 3億は別としても、
ロシア 1億4,000万
イギリス 6,500万
フランス 6,500万
ドイツ 8,000万
韓国 5,000万
と、先進国の中では多い方。
首都圏だけでも3,700万人と、カナダ(3,500万)やオーストラリア(2,400万)なんかよりも多い。
最近、少子化が問題になっているけど、他の国を見ると、まだ人口は減っても大丈夫なんじゃないかと感じます。どう減らすかは問題になると思いますけど。
少なくとも寛容ではない。
日本人は宗教に寛容!
初詣は神社に行って、クリスマスもお祝いして、結婚式は教会だし、葬式はお寺さんをよびます。ほら寛容。
だからと言って、イスラム教徒の人が、ハラル食の給食を求めるのは、なんか違う気がする。ハラル食の給食を提供するにはコストがかかるし。宗教の戒律っていっても、食べても死なないんでしょ?不満なら弁当を持ってくればいいじゃない。それくらいなら許可するよ。
ユダヤ教の人が、安息日なんで金曜日の午後は休みを下さいってのも、なんか違うよね。それならそういう会社に初めから入ればいい。
会社はチームプレーが必要なんだから、仕事を効率的に回すには、みんなが揃う時間ができるだけ長い方がいいの。個人のわがままでみんなに迷惑をかけるのは良くないんじゃないかな。ここは日本なんだし、郷に入っては郷に従えって言葉もあるし、少しくらい譲歩して、金曜日の午後も働くようにしてもいいんじゃない?
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書いてて死にたくなりました。嘘です。案外ノリノリでした。
寛容の意味が、理解し受け入れるということならば、上の態度は宗教について何も理解してないし、拒否してないだけで受け入れてもないので、寛容とは言えない。
寛容であるということの意味が、相互の利益に関係しない、赤の他人の宗教に文句を言わないという文脈で用いられているのであれば、それを意味する言葉は、少なくとも寛容ではない。
てきとーに生きるために大切なこと
てきとーに生きるのは難しい。
どこまで手を抜いていいかをちゃんとわかっていないと、大事なところで周りに迷惑をかける。そうなると周りからのチェックが厳しくなるので、てきとーがやりにくくなる。
てきとーをするには、どこを押さえないといけないかをしっかりと知っておく必要があるのである。
エレベーター対エスカレーター
子どもが生まれてベビーカーで移動するようになると、階段やエスカレーターが使えなくなります。そうすると、上下の移動にエレベーターが必要となります。
階段やエスカレーターに比べてエレベーターは数が少なく、搬送効率も悪いです。そのため、しばしばエレベーターの前に行列ができています。
ただ、エレベーターを待っていると「エレベーターに乗る必要ありますか?」という人をチラチラ見かけます。少しお年を召した女性の方々、小さいキャリーケースを持った旅行者。エスカレーターが近くにある場合でも、エスカレータを使わずエレベータを待つのです。
個人的にはエレベーターよりもエスカレーターの方が楽なので、なぜわざわざエレベーターを待つのかが理解できません。必要な人のためにもエスカレーターを利用してくれるといいなと思いました。
あの戦争と、「手段」と「目的」
あの戦争について、とある人たちは、
「日本はアジアを欧米の支配から解放するために戦った。
そのための正義の戦争だったのだ。」
とおっしゃいます。
大東亜共栄圏の思想や、それ以降にあのあたりの国が相次いで独立したことを考えると、ただしいのかもなとも思いつつ、なんかモヤモヤしてました。
モヤモヤの原因が分かったのは、「目的」と「手段」を分離してみたから。
「アジアの欧米諸国からの解放」を目指していたとして、それは目的だったのか、手段だったのか。
目的ではあり得ないというのが結論。
なぜなら、結局、あの国との戦争に踏み込んだのは、資源の枯渇が緊迫してきたから。
目的というのであれば、もっと早くに行動にうつしておくべきでした。